ナゴヤ球場 が移転へ
ナゴヤ球場 が多くの思い出を残して老朽化のために移転することがわかった。
中日の年賀式が6日、名古屋市内の球団事務所で行われた。球団の吉川克也社長は2軍のナゴヤ球場の移転による新球場建設事業に着手していることを明かした。
「ナゴヤ球場は老朽化に伴い、移転の話を本社(中日新聞社)と進めております。時間はかかっておりますが、なるべく早いうちに大枠を固めて発表できればと考えています」。新球場の完成時期や移転先などは未定という。中日スポーツ
中日・ナゴヤ球場移転へ、吉川克也社長「老朽化に伴い話を進めております」1948年に開場、96年まで1軍本拠地
ナゴヤ球場 その歴史は中日スタヂアム
1948年に当時本拠地を持っていなかった中日(中部日本野球倶楽部)が空襲によって焼失した軍需工場跡地に球場を建設するところから始まる。
僅か2カ月の突貫工事で12月2日に収容人数23,000人の木造スタンドの「中日スタヂアム」が完成したのだ。
設計に当たっては当時のクリーブランド・インディアンズの本拠地であったミュニシパル・スタジアムを参考にし、第一号本塁打は12月2日に行われた東西対抗戦で阪神の藤村富美男がレフトへ放り込んでいる。
全焼火災で鉄筋コンクリートへ
1951年8月19日、名古屋ドラゴンズと読売ジャイアンツの19回戦の3回裏、名古屋の攻撃中にネット裏スタンドから火災が発生。
当時7.4メートルの強風で火は瞬く間に広がり、球場は全焼。
正面スタンド入り口わきの球場事務所、駐輪所、周辺民家を含む大火災となり、死者も出た。
この火災により、中日球場が使用不能となり、8月19日以降は松坂・彦根・浜松・刈谷・鳴海球場などを転々とすることになる。
その後、1952年4月には鉄筋コンクリートの新スタンドに再建され、収納人数は30,000人になり、中日のほかに近鉄も準ホームとして使用。
1953年には初のナイターゲームも開催された。
株式会社ナゴヤ球場へ
1973年に中日スタヂアムが経営に行きつまり、ドラゴンズの親会社である中日新聞社・中部電力・名古屋鉄道・松坂屋など地元の大手資本によって同球場の新しい受け皿会社として新会社が設立され、球場名も現在の名称となった。
1980年代は夏の高校野球の愛知県予選の会場として使用され、工藤公康投手ら、のちにプロへ行く選手も高校時代にプレー。
ドーム球場の完成
1997年2月にドームが完成し、スタンドの老朽化などの理由から1996年10月6日の中日vs巨人戦でいったん一軍での使用は終了となった。
伝説の1994年10月8日の巨人との優勝決定戦や、昭和49年・昭和63年の
リーグ優勝など、数々の名場面を演出してきた同球場だが、ついにその役割を終えることになる。
中日ドラゴンズ 全てビジターでの4連勝はAクラス入りした20年以来4年ぶり。16度目の挑戦で壁を破る。
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” がんちゃん “ 1976年生 大阪府出身
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阪神-巨人戦(甲子園)CS放送にてイニング間15秒 CM出演の経歴あり。
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